(NPO)木の建築フォラム(地域メンバー) & あいかわエコミュージアムフォーラム 提案

過去の遺産で新しいものを作り出すことが文化の 本質
脚本家第一人者・市川森一氏の公開オピニオン
  • 未来の糧に絶対的に必要な過去の資料蓄積を 軽視する、日本の文化行政に共通する愚かさ
文中、「 脚本」という<対象>を、他のもろもろの文化の現状分野に置き換えても全く共通する問題提起。
特に、生活、環境、自然、町並みなど郷土の文化そのもの、またその文化に言及した調査、資料、企画展示などの成果をもいとも安易に散逸させていく文化行政。創造という言葉をその辞書に持たない欠格集団。そういう共通する愚かさに、氏の承諾を得てここに、引用紹介させていただいたも のです。
(朝日新聞 「私の視点」欄 2003/06/14公開) (転載=筆者承認済み 2003/06/26)

OPINION
 脚本家 (日本放送作家協会理事長) 市川いちかわ 森一しんいち

◆脚本ライブラリー 過去の作品未来の糧に

 「過去は始まりである」
 ワシントンの米国立公文書館の入り口に刻まれているシェークスピアの言葉だが、わが日本放送作家協会も、過去の作品を未来の糧にしてもらいたいという思 いから「脚本ライブラリー」の必要性を訴え続けている。

 テレビは文化だという認識が定着しているアメリカでは、映像も放送脚本も国民共有の文化資産として公的に保存されてきているが、わが国では、テレビが放 出するもろもろの映像を、残すに値するほどの文化だと思わなかったのかどうか、保存するというシステムを開局時から放棄してしまった。

 テレビドラマでいうと、開局からの50年間に放送された作品数は、NHKと民放合わせてざっと2万2千タイトル(大河ドラマも一タイトルという計算だか ら本数にすると数十倍)になるが、このうち横浜の「放送ライブラリー」に保管されているビデオは、わずかに1360本(03年5月現在)に過ぎない。

 私のNHKデビュー作となる74年の銀河テレビ小説「黄色い涙」などは、すでにビデオ収録の時代であったにもかかわらず、ビデオテープの使い回しのため に、20本残らずこの世から消されてしまった。

 この時代、ほとんどのドラマが同じ運命をたどっていったのだが、いまでも不思議に思うことは、いくらいまより高価だったとはいえ、しょせんは収録のため のビデオテープではないか、その節約のために、それよりはるかに金も労力も費やしたはずのドラマの方を犠牲にしてはぱからなかった当時のテレビ管理者たち の倒錯した価値観である。
 彼らには目先のテレビ経営しか念頭になく、そのために、残さなければならなかったはずの「テレビ文化」を抹消し続けたのだ。

 テレビの作り手側が自ら捨て去ったテレビ文化の資産は余りに膨大過ぎる。
 それでも映像については、近年ようやく、前述の「放送ライブラリー」や「NHKアーガイブス」のような貴重な映像資産を未来に伝える目的の施設が建ち上 がり始めてはいる。 ところが「放送脚本」を収集、保存してくれる施設はいまだにこの国には存在しない。

 ドラマにとって脚本とは、建築における設計図、音楽における楽譜と同様のものだかち、仮に映像が消失していても、脚本が残っていればドラマの足跡をたど る資料にはなり得る。

 「脚本ライブラリー」があれば、失われた思い出のドラマを脚本で追想もできるだろう。過去の作品を知ることで、未来のあるべきドラマの展望を描き出すこ ともできるだろう。もしかしたら「残す」という機能が動き出すだけで、視聴率至上主義の行き過ぎで創造性を失い、画一化、幼稚化している現状から、テレビ ドラマ全体を救い出すことだってできるかもしれない。

 あるいはまた、全国の大学図書館とのネット化により、芸術、マスコミ学等の広範囲な分野の研究資料にも役立つだろうし、全国図書館との提携により一般市 民に、脚本を通してドラマを見る目を養ってもらいたいとも思う。

 いまさら念を押すまでもないが、テレビドラマが国民の情操に及ぼす影響には計り知れないものがある。その責任の重さを実感すればこそ、私たち脚本家はテ レビドラマの「質」の向上を願い、そのための拠点となるべきライブラリーの一日も早い設立を行政機関にお願いしてまわっている。

 その一方では、50年間、散逸に任せていた多くの放送作家たちの脚本の収集も急がなければならない。いまのところはひとまず、「脚本は捨てないでおいて ください。いずれライブラリーができたら引き取りますから」と、呼びかけているところだ。

Copyright(C) Ichkawa Shinichi 2003

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