郷土資料館(元)半原小学校 木造校舎 建物調査

  • 調査年月日 平成13年8月 28日
  • 調査メンバー(経歴実績資料はリンク先)
黒田重義〔 棟梁     / 立体木造トラス研究家:(NPO)木の建築フォラム 〕
井爪喜久子〔 一級建築士 / KI一級建築士事務所:(NPO)木の建築フォラム 〕
森 誠一   〔 一級建築士 / 森建築設計室:(旧)木造建築研究フォラム 〕
大木正美 〔 一級建築士 / OokWood設計工房:(NPO)木の建築フォラム 〕
※特記付記  (報告書まとめ文責:大木正美)
 この調査は、木造建築専門研究全国組織「木造建築研究フォラム・現 (NPO法人)木の建築フォラム」創立時以来の実践研究メンバー4名(各実務経歴60年~25年以上)の研究家棟梁、建築士(うち2名は愛川町在住建築設計家。うち1名は半原小卒業生でもある経過で)ふるさと遺産の現状を、専門見地で判定するために自主ボランティア調査を行ったものです。
 自主調査ゆえに、「調査の許可」をようやくいただくというい申請手続きから発生する行動や日程の制約も多く、町管理職員1名の立会いの限定一日小屋裏、構造調査にあたったほか、通常日に資料館訪問見学者としてできる断続的な調査を積み重ねました。
 調査許可条件として課せられた「報告書の提出」にあたって研究者としての当然ながら純粋客観判断を実直に、かつ率直にまとめた報告書です。 
 


郷土資料館元半原小学校木造校舎建物調査報告書

(平成13年11月5日)

1.調査の概要

   現存する(元)半原小学校木造校舎は、「大正14年(1925年)半原の宮大工達の手になる、独特の様式と技術」が注ぎ込まれた建物として言い伝えられてきた。
 しかし、どこが独特で、どこが伝統の技術であるか、建築学上どういう意味を持つかについては、およそただ「そう言い伝えられている」という言葉のみ言い伝わる、言はば「伝説化した建物」として残存してきた。

 木造建築の歴史的かつ正当な評価と研究を目的にした立場から、この木造校舎の正確な学術的位置付けを解明すべく、第1次調査として、小屋組み構造と意匠全般の特徴を調査した。

 大正期の学校建築で屋根形状が切妻ではない「寄せ棟」形状という特徴、加えて「宮大工の技」という言い伝えから、洋小屋=トラス という明治期の舶来技術と日本建築古来の規矩術による伝統工法が巧みに融合された系譜的構造が推測されていた。
 その分野(伝統工法と近代大型木造建築技術の実践的研究)では建築界の生き字引として学会教授陣も一目置く老練棟梁・黒田氏の立会い・監修の機会を得て、日常人目に触れにくい小屋組構造の解明と、全体概観の目視記録および所見を付した。
 小屋裏調査は、夏の灼熱地獄下、時間的に限界があり、部材採寸ほかの詳細調査は2次調査に譲るとして、充分に解明できた特徴を写真と図で第1次記録報告とする。  

 町外にはほとんど知られていないと言ってよいこの愛川町に現存する木造校舎の構造様式、実写画像ほかのデータが広く世に伝わることで、いま各地で研究解明の進む近代の歴史的木造建造物研究分野に更なる呼応と関心を呼ぶものと期待される。
 建築史上確固とした技術体系に残る数少ない文化財建築と公に注目され、くり返し研究対象となる可能性も大きい。

 また、小学校地内、肌で触れられる教育現場において、『独特の様式と技術』と言い伝えられてきた言葉の「真の意味」を学術的に具体的に解説できることになろう。「伝説から実証へ」という、科学する心・歴史を探る心の教育環境の一助になればと願う。

 先人たちが残してきた技術と努力を知ることによって、ふるさとの誇りを新たに、建築様式に興味を持ち進路に選び、将来愛川町出身の鬼才たちが続出されんことに期待する。

2.調査メンバー

黒田重義〔 棟梁     / 立体木造トラス研究家:(NPO)木の建築フォラム 〕
井爪喜久子〔 一級建築士 / KI一級建築士事務所:(NPO)木の建築フォラム 〕
森 誠一   〔 一級建築士 / 森建築設計室:(旧)木造建築研究フォラム 〕
大木正美 〔 一級建築士 / OokWood設計工房:(NPO)木の建築フォラム 〕

(左から井爪、黒田、大木、森)
(立会)町教育委員会 山口研一氏

3.調査年月日 平成13年8月28日(火)

4.所見

小屋伏図 S=1/100
※矢印は写真撮影箇所番号と撮影方向

:小屋組構造(創建部分)  <調査写真:(K)~(Q)参照> ※WEB版:各画像をクリックすれば拡大画像表示
 

すみ合掌 (写真:K1)

King Post 隅真束 (写真:K2)

隅真束周り木組み(写真:K3)


「隅合掌」一般,(解説図)
(※調査半原小学校の現況ではありません)

※写真撮影箇所は添付図記載  小屋組みの主構造は標準的な洋小屋=トラス、スパン10m(5間半)、間隔@1.8m(1間)。 本棟左妻、隅部分に「隅合掌」という力学的にも施工技術的にも高度な木組みの存在が確認できた。
 屋根デザインに「寄せ棟」形状を好んで採用したか、あるいは伝統技術の裏付けの誇示もあったか、隅部の納めに、輸入技術(洋小屋=トラス)と組み合わせる形で、「隅合掌」を巧みに配置している。
 梁間方向に配置されたトラス構造は「三角形不変の定理」で最強の組構造であるが、直立させた山形トラスの「面」を一つ一つ支えるのは「クモ筋交い単材」であって脆弱性を免れない。
 「隅合掌」とは、山形トラスを並列に並べて支持強度のない「面」の倒れこみ方向に対して、(水平部材の隅角を基点に)立体方向にさらに三角形不変構造を仕組む構造技法である。屋根勾配に応じた合掌=斜材と、三次元に組み合わせる全部材をすべて事前に机上で図り出して刻む込む、精緻な木組みの伝統技術なくしては成立しない。まさにここに「宮大工」の誇りを謳ったに相違ない。明治期にこぞって先進イメージで導入された洋小屋・洋風デザイン建物=擬洋風様式建築の実現を支えた大きな歴史的技術体系の誇りであろう。<参考イラスト図参照
 トラスの King Post「隅真束」部分は、合掌材・隅合掌材ほかの部材が集中して取りつき、まるで蕪(かぶら)から根が出ているようなありさまから「蕪束」とも呼称される。その複雑かつ寸分ない接合の組み合わせ・仕口形状を事前にイメージして墨付けする職人芸は、現代のコンピューターにイメージを頼る者の冷や汗を呼んで余りある。<写真:(K4)>  

隅 真束(かぶら束)=King Post (写真:K4)
(参考付記)

「隅 真束」一点で複雑に組み合う合掌斜材を、事前に 差し金一つ机上で墨ツケ、完璧に加工を済ました部材で組み立てる高度な知の技

(出典: 理工学社刊「大工力」Author, 黑田重義. Editor, 井爪喜久子)


 建物の短辺幅(梁間方向)によって決まる寄せ棟 45° の交点位置に立てる「隅真束」を支えるために、最終2列のトラス間隔を通常1間間隔からプラス 1.5尺 調整して配置している。<写真:(O)および(N)ライン>  


 さらに下部構造の桁位置に乗るように「対束(ついづか)」、「夫婦(めおと)束」と呼ばれる一対の束柱を組み込んだ「台形状の変形トラス」でさらに隅合掌を補強している。  <写真:(T)>  
 建物コーナー部分は、「隅合掌+隅ろく梁+束」で構成した「鉛直面トラス構造」と、「敷桁 >(しきげた)+火打ち梁」で構成した「水平面トラス構造」を直交させた立体感覚豊かな木組みの妙が試みられている。 <写真:(S)>

小屋組構造・右ウィング(昭和53年当時・曳き家・切り詰め改造時・工事部分)

<調査写真:(X1)参照>  
 一方、本棟右屋根の小屋組み構造部分からは、(切り詰め改造時)この部分で元の建物を切断して、手荒に寄せ棟の屋根形状をしつらえた形跡がうかがえる。
 新たにつくる妻側屋根面に合わせ、創建時トラスの合掌部材を現場当たりで切断し、誤差隙間を介木で埋める接合でしのいでいる。構造的に規範性の感じられない、表面上の屋根形を取り繕うための現場合わせ施工で、応急修理の様をまさに呈している。

右屋根 妻 改造部
合掌切断ライン (写真:X2)

右屋根 改造部 棟方向 (写真:X3)
 

改造隅木の交点

King Post位置「隅真束」に見たてて新たに立てた支柱材の下部には構造的な梁補強がなく、宙ぶらりんの状態で、欠陥構造の様を秘めている。
 
 当時この建物を残して欲しいと要望・実現した住民がどういう残し方を望んだかは忘却の中だが、この改造時点の施工を施した関係者たちに、創建に関わった人たちの思いや誇り、技術は一切受け継がれていないことを痛感する景観である。
 左妻部の「世界に誇れる木組み」と、対で、右妻部の改造痕跡も、心を失った産物の「負の遺産」として、比較して望見できる露出展示方法も最近の博物展示の考え方の潮流のひとつとして紹介しておきたい。

(参考付記)

「半原大工」の呼称にまだ名誉と誇りを感じる職人魂がもし残っているなら・・・
高度な 規矩術を操ってきた実戦経験豊富な老師匠たちが、まだほんの一握り生き永らえていている今、日本の木造建築の真髄の知と技を継承できる最後のチャンスは今しかない。
 知識と実践の技を受け継ごうという意欲のある若者を広く募って、最後の伝承者の下に集い、この現代の付け焼刃の象徴のような酷い補修部分のすみ合掌を本当の本物に改修する実践工事を企画すべきではないのか!建築に関わる多彩な組織が協働参画・企画するに値する事業ではないか。
 そして、その一部始終の動画記録や、さらに天井を除却していつでもその構造の実物を見れる展示的な残し方こそ、日本中にその財産を誇らしげに保有する愛川町の文化度と町の名が記憶に刻まれるだろう。
 なにもタワー建設の先端技術ばかりが世界の注目ではない。一千年以上の古来から現存する世界で最も古い木造建築技術を持つ国の、何もゼロ戦を作る技術ばかりでない、つい一昔の身近な子供たちの学び舎にさえまで伝統技術が息づいている、そのことのほうがはるかに国際的に誇れる「文化」の豊かさと言える。




板張り外壁「ドイツ壁」

 一般的木造日本家屋の外壁板張りは、横羽目を段々に重ね張りした「下見」が常套であるが、この木造校舎のように横羽目を(合いジャクリ加工して)付き合わせフラットに仕上げた仕様は当時としては独特なものであろう。 <写真:(オ)>

写真:(オ)

 洋風のよろい状重ね張り下見が別名「イギリス下見」とも呼ばれていることから、また新たな西欧技術国の舶来高級イメージの由来か(?)「ドイツ壁」と呼称され、斬新な仕様として珍重されたようである。
 当時のものとしてはあまりに斬新と感じられ、現状態は創建当時からの仕様か、後から修理改修されたものではないか疑うほどであったが、全般的な納まりから創建当時のものとしか推測できない。(明治 45年当時の愛川村役場を写した建物写真には擬洋風系譜の卒のないデザインが見て取れ、当時この地域に産業を築いた人々の進取の気性と日常感覚をうかがい知ることができるが、)フラットな板張りの上に幅広の付け柱、付け土台、定規縁と呼ばれる化粧額縁材を取り付け、重厚な輪郭ラインで立体感を際立たせた洋風デザインは当時なお、大変「しゃれた」建物の評判を呼んだものと想像して難くない。


半原小学校創建当時のスレート屋根仕様を模したと推測される同時代以後の木造建物


 また半原小学校沿革資料ほか老齢卒業生の聞き取りにおいても創建当時の屋根仕上げは平板スレート葺き、棟ラインはすべて棟瓦で保護され、強い輪郭ラインが強調されていたであろう。その屋根外観からも醸し出されたであろうデザイン的風貌は、残念ながら、現在の赤塗り長尺トタン桟葺き・棟カバーなしの屋根現状からはイメージし難い。

平板スレート葺き

 現在も各地に現存する明治期からの木造校舎の系譜は、縦長の洋風窓やオーダーデザインとどこか和風の匂いを隠せないアンバランスの擬洋風独特のぎこちなさが感じられるが、大正期に入って洋風の物まねも落ち着くところに落ち着いた感をこの木造校舎に感じ取れる。    
 フラットな外壁面、日本固有の実用性優先のワイドな引き違い窓、輪郭の強調だけで余計な装飾のない仕様には、現代モダンに通じるシンプルなさわやかさが感じられはしまいか。板につかない洋風装飾様式をただ珍しがる感覚とは一線を画し、創建当時の関係者の質実な感覚の一端を見つめ直せるのではないか。
 なお、現・資料館本棟は、表校舎・裏校舎とニ棟並列した同規模の校舎配列のうち、裏校舎棟と、表校舎の玄関部分を寄せ集めた可能性が高い。
 玄関部分については小学校の象徴的部分であるが、構造、意匠とも、創建時のものから相当の改変があることがわかっている。
 玄関正面切妻の棟付近を一部妻側に切り落とした屋根形状は「ドイツ屋根」という一般的呼び名があるが、創建当時のものとすると、これも「しゃれた」斬新な様式を取り入れたものと思われる。 <写真:(ワ)>

写真:(ワ)

 しかしこの部分を含め、今回は周到な事前資料調査に及んでおらず、全般の歴史的沿革・経緯についてはまた別の機会に調査を深めたい。

(d)内装

<天井、床>
 右端の教室(展示室)の天井は白塗りペンキ塗りを除けば創建当時のままの竿ぶち天井であり、天井四隅に換気口が設けられている。(小屋裏調査にはこのうちの棟側のひとつから進入した。)蓋に施された換気用の切り抜きは、半原小学校の「校章デザイン」の「桜」のマークであり創建時のディテールの細やかさを脈々と伝えてきたものであろう。
 

天井換気口
 他の教室の天井はすべてあらたなベニヤ平張りで天井換気のこまやかさも引継がれていないが、小屋裏側からの調査では、創建時の天井は構造的に何の問題もなくそのまま残されているのが確認された。改造時に換気口ごとベニヤを打ち上げ張り増して白塗装し、表面上「白くて新しい」新装イメージをとりつくろったようである。当時の設計者・関係者に古い建物と材の歴史を考える敬意と修養も必要とされなかった象徴といえる。
 左端の教室(展示室)は、どういう重量物を載せる理由があったか明らかでないがコンクリート土間打ちに改造されている。防湿層を敷いたか不明、かつ床下換気はなされなくなっており周囲土台・柱脚等構造部材にどの程度悪影響を及ぼしているか懸念される。創建時の床仕上げは杉の厚板との記憶が伝えられているが、現状は長期耐久度に疑問のある化粧ベニヤ床板に改造されている。床下の束は現状あちこちで浮き上がっており、改造工事の手抜きか経年変化か原因は明らかでないが、相当の床振動を起こしている現状に符合する。<写真:(チ~ヌ)>

(チ)
>
(リ)

(ヌ)

 床下換気には、廊下の土間コンクリート部分で通風が遮断されてしまう恐れから、廊下地中に直径150ミリのパイプを埋め込み貫通させて換気を計った芸の細やかさが見られる。他の施工部分の荒さから勘案して、このアンバンスな細やかさは創建当時の換気土管などの実在を習ったとも推測される。であれば、湿度の高い日本の気候風土を知る先人たちの、特に換気に留意した、建物の生き長らえられる気遣いと知恵にあらためて「良識」を気づかされる。<写真:(ホ)>
 

(ホ-1)

(ホ-3)

(ホ-2)
 ただ、現状の建物裏側基礎に設けられた円形の床下換気口は、ガラリスリットがすべてつぶれており、空気流通性は無いに等しく、先人たちの心づかいを無に帰させている。<写真ホ-2>

開口部建具

 板張り大壁の取合いから額縁おさめ洋風の基調になるが、窓開口方式は和式一間標準モジュールの引き違い窓である。
 これ以前の近隣の学校建築(参考に明治>35年の大沢小学校(現・相模原市)ほかに見るスタイル)では、建築様式自体全くの「和風真壁」スタイルの引き違い窓である。また時代を下って、昭和12年に座間・相模原に建設された陸軍士官学校(元校舎現存)など中央主導の色濃い校舎などは、分銅式上げ下げ窓の縦長洋スタイルを保持している。照らして半原小学校の、洋風の大壁に持ち出し開口枠、引き違い窓という形式は、一見何とはない納まりに見えるが、実用性と経済性、雨仕舞い耐久性にも配慮を尽くした、時代的最善の仕様を施したものであろう。<写真:(カ)>  

(カ)

 建具の経年変化は、大部分において充分な耐久性と品質を保っており、部分補修と新開発の防護材塗布でさらに長期間実用に耐えるものである。
 一部に目立つ框材の腐朽はすべて、後述する雨だれの部分集中を放置した箇所の故意的な傷みである。部材交換補修で充分再生利用可能である。(ガラスは現製品がすべてフロートガラスに置き換わった今、歪みの妙の古ガラスを骨董的に求めるファンさえある価値感もあることを付記しておく)
 ガラス建具という部位は、破損や故意的破壊の対象になる脆弱性を表出している部位であるが、専門家を指導員に、技術・家庭科などの実習として生徒自ら補修再生体験するなど教育過程を設けられんことを提言したい。自分たちの作業で弱いものをかばい・直し・再生し、さらなる庇護を加える経験は、何気ないものへの恩恵と大事さを十分に認識させてくれるだろう。

<<要緊急補修箇所>>

 傷んでいる部分は、すべて「部位」である。「構造」部分に及ぶものは、樋の欠陥によるごく一部の「集中雨だれ」放置部分のみであり、建造物としての耐久性を問題にする所見はみられない。
 ただし、この腐朽の進行部位をこのまま放置すれば、急激に構造部分にまで腐朽が及ぶことを逃れられない。保存価値が内外に大きく公認された暁には、この程度の応急修理費用よりはるかに高くつく本格修理に陥っていることは予想がつく。「早く腐ってなくなってしまえ」とのイメージを抱かない者はいないのではと憂えるものがある。

外壁各部 一部柱脚・土台

 <写真:(イ)(ニ)(ヘ)(ト)>
 
   
 原因:すべて雨樋の破損放置。壊れた雨樋から雨水が逆に集中して落ちる部分に限って腐朽を促進する典型的な見本例。

玄関屋根上小壁、ひさし他

 <写真:(ロ~ハ)>
  
   
 外壁ラス下塗りまで剥落しているのは、雨樋の脱落した大屋根からの雨だれが直下の下屋根ではひどい跳ね返りになって傷められていることを訴えている。

長尺トタン桟ぶき屋根


<写真:(ル)>

(ル)
  桟ぶきの棟合わせ部分にカバーを設けない工法は、長期的に欠陥工法としてしか評価されていない。   
  (軒先も高い位置まで下葺き鉄板を敷かないと最も腐朽する工法であることが判っている。)   
   雨水の回り込みに対して、桟のコグチの処理をトタンの切り細工だけでは密封できないからである。   
 現状も油性コーキングで漏水をかろうじて止めた応急修理がなされているが、耐久性、確実性には当初から疑問符がつく。
 長く保存しようとする意図が希薄な象徴的初期仕様と言わざるを得ない。


 「後世の者につべこべ言われない仕事を」というのが、かつての職人かたぎに共通した職業理念と誇りであった。この理念の再生も含んでの未来への報告としたい。
(文責:大木正美)

作製添付資料

小屋裏写真、建物全般写真、建物平面図、小屋組伏図、参考図
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平面図 S=1/200
※矢印は写真撮影箇所番号と撮影方向

小屋伏図 S=1/200

※矢印は写真撮影箇所番号と撮影方向


【参考】半原小学校 沿革 (愛川町郷土史 昭和57年刊)


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