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    熊坂(七曲坂)のタブノキ 2001/02/16
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    熊坂の地名 ― 字(アザ)楠 〜 神明社のクスノキ 2001/02/16
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(予定)熊坂のムササビ 飛翔鑑賞サイト 工事中



 
 

 

熊坂のタブノキ


タブノキの葉

タブノキの樹肌・樹形


 



樹々たちの立体回廊 ― 熊坂(七曲坂ななまがりざか) ―
百年単位をかけた樹々という作品群を、上から下、低いところから高いところから、多様な視点で身近にたっぷりと鑑賞するためにしつらえられたかのような、つづら折「立体ギャラリー」

 


特にお年寄りなどには厳しい、また、木々たちにも決してやさしくない自然の摂理の断崖地、つづら折の急坂道だが、理念なき殺戮者=人間の破壊文明から逃れられる、ささやかな保護環境。

神社などと同様に、このような昔からの人々の自然と共に生きる営みの道に神聖さを感じる感性が残る限り、この「樹々たちの立体回廊」はさらに数百年も数千年の未来にも樹令を重ね、貴重な環境遺産として成長しつづけるだろう。
 

*(この歩行路は、利用頻度に関わらず、坂の上・下に住む住民コミュニティ総意・総出により定期的に清掃・整備が保たれている。寺社の参道のようにまがまがしく意識には呼びかけはしないが、生活に密着した真の環境遺産でもある。)
 

 

2001冬の午前   
 
   

 

熊坂

文字からすると熊のいた坂とか熊が獲れた坂とか考えられる。
金田一博士は「曲った坂道」と説かれる。

新編相模風土記稿(熊坂村の項の坂四の劈頭の七曲坂)に「小名 熊野坂 と云、八菅山中 熊野社 に向いしゆえなり、後其唱転じて 熊坂 と呼びしと云」とある。

七曲坂(ななまがりざか)は (旧) 中津郵便局前の坂の古名である。坂の情態を見るといかにも前掲の金田一博士の説に符号する。「くまのさか」が「くまんざか」となり、それが「くまさか」と転訛した。そしてその坂に接する集落の地名となりこの集落が中心になり拡大して村名となったと解すべきだと思われる。

新編相模風土記稿には「熊坂村の小名に 六倉 (往昔足柄通り東国筋之の街道係りし所、云伝う八菅村入会の地にて相模川に添たれば中古川関の地多し、按ずるに和名抄当郡の郷名に六座あり即此地なり) 大塚 (八菅半縄入会の地なり) 瓦山 の三つを掲げている。

現今「熊坂」の主要な小字に「楠」と「松台」二つがある。
 楠 の小字名は風土記によると神明杜のところに「楠樹神木なり囲一丈六尺」と記されている。勿論今はないが現存すれば厚木市妻田の清水小学校構内薬師前の神奈川県指定文化財の天然記念物、楠樹に匹敵するものだったろう。この楠樹によって周辺の地の地名となったものである、松台の小字名は愛川町中津支所前を南北に通る昔の津久井道沿いに松並木があったところから起った地名である。

熊坂の地名に関連して熊坂姓のことを記すといきおい竜福寺(字楠四八○番地)にふれねばならない。風土記によると―竜福寺―「開基は村民なり 法名昌山玄久俗称金兵衛 寛永八年(一六三一)九月十九日死、祖先は干葉氏にて、小田原北条氏没落の時 新介某干葉を去って当所に来り 氏を熊坂と改め 村民となりしと云今に子係あり」とある。このことについては小田原記に「天正十三年(一五八五) 干葉新助国胤 其臣桑田萬五が為に弑せられる…」関八州古戦録には「天正十六年(一五八八)干葉新助 横死 国胤の息千鶴丸僅に六歳の儀なれば…中略…千鶴丸をば小田原へ招く後に 新助 重胤と号せしは之れなり」とか示唆されるところが多いがこの点今後の研究を要しよう。

とにかく熊坂姓と干葉氏とは関連があることは確かである、熊坂姓は本村の特性で現在は同姓の者は数十戸あろう。何れが宗本末かは解らないが本家を中心とする血縁的の分家新屋と血統には関係がない地縁的の地類地分け等々の姓団である。

(中村昌治)
「あいかわの炉辺史話」
(愛川町教育委員会 昭和42年・1967年・発行)より

 



 
 

熊坂界隈


神明社のクスノキ


クスノキの樹形

クスノキの葉

クスノキの樹肌

クスノキの幹

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