提案コンテスト出展 プレゼンテーションA案 (2001年当時)
愛川

木を植えることをしても
木を使うことをしなければ
森は育たない

植えてから何年育てた木で、この木造校舎が建てられたか・・・考えたことがありますか?

{  木造の耐用年数は30年と偽られている。
「手入れをしなければ」を前提に騙られている言葉である。手入れをしなければテッキンコンクリート造も鉄造も同じように耐用30年。
 現に、文部科学省は、1970年前後に集中したテッキンコンクリート校舎が、「今後10年で大量集中的に耐用年数に達する」ことを明記して、「この機に、画一的と言われてきた学校施設が地域の実情に応じた特色あるものに生まれ変わるチャンス」、とまで論を張っている。(文部科学省施設助成課ホームページ・学校施設国庫補助事業解説)
文部科学省HP 

1977年築の半原小学校テッキンコウシャもこの耐用年数を実証して、この夏休み(2001年度)まさにこの国庫補助事業ニ億円を超える大規模改造工事に預かっている。


しっかりした木組みによる木造建築の特色

は、廉価に補修ができ、維持できること。
ところが補修技術がいままさに途絶えようとしている。

伊勢神宮の20年で建て替える行事は、技術を絶やさないためと言われる。
建て替えるほどのことをしなくても補修をしっかり続けていけば、技術も建物も後世に伝わることは、百年・千年生き続けるあまたの木造建築が証明している。

補修をしましょう。補修の仕方を習いましょう。今なら、まだ技術を継いだ老棟梁たちが生存します。
そして、愛川の木を使って、テッキコンクリートより長持ちする建物と生産技術を興しましょう!

黒田棟梁 

<立体トラス著作権者の略歴>

黒田重義(Kuroda Shigeyoshi)

1929年福岡県生まれ、’43年田川市の国民学校高等科卒業、徒弟修業に入り ’48年に独立。戦時中は軍需施設、戦後は庁舎・病院・映画館・学校建設の大型木造の建設に携わるが、大型木造禁止で職を失う。

1960年、八幡製鉄(現・新日鉄)堺製鉄所の建設に携わる。以後,RC造等の高級内装造作工事を専門に全国を巡る。

1981年、木造建築に戻り、五重塔(大分県)建設で機械加工を指導。引っ張り接合法を開発し、建設省主催「いえづくり ’85プロジェクト」で優秀賞を受賞。
’87年に<KI工法>の建設省公認を受ける。’91年に組み込み式立体トラスを発明。隅合掌の復元・改良により “梁なし小屋組” を開発。この間、各種引っ張り接合システムの強度試験、および施工実験により研究を積み重ねる。目下、「立体トラス建築」の製作技術普及と指導に尽力している。

著書:大工力(理工学社刊) 序文紹介ほか  You Tube(木造技術講演会風景)
 

井爪喜久子(Izume Kikuko)

大連生まれ、日本女子大学家政学部住居学科卒。現在「KI一級建築士事務所」主宰。
(社)日本軽量鉄骨建築協会で鉄骨造建築の普及資料等の作成、(社)鋼材倶楽部で鉄骨製品利用相談等に携わる。設計事務所や建設会社での実務を経験し、日本建築学会 JASS-1 木工事改訂小委員会・旧委員。『建築技術』誌、『木の建築』誌ほかに執筆。「立体トラス建築」KI工法研究会世話役。

事務所=東京都八王子市長沼町247-2-5-201
電 話=0426-45-0627
 

  • シェアウェアソフト KI_TRUSS

  •  トラス構造物の3次元作図及び有限要素法による構造解析 (作者:井爪昭忠氏)

     KI工法とは大工棟梁黒田重義氏の開発した工法で「木の突っ張り」「鉄の引っ張り」の特徴を巧みに生かした技術で、格子状に組んだ上弦材及び下弦材の各格子間に「圧縮」に強い斜材をはさみこみ、重力荷重に強いスペース床を作成し実用に供している。
     又その強度については1993年に三重大学生物資源学部での実験により確認されている。 KI工法については、理工学出版 黒田重義著「大工力(だいくりょく)」を参照してください。

 KI_Trussは本工法を支援するために作成した計算コードで次の4っの部分から構成される。
(1) KI工法のデータ作成法
(2) 構造解析のためのデータ指定
(3) 有限要素法による構造解析
(4) 構造解析の結果の表示
KI_Trussは本来KI工法で作成する基本構造のパース図を描くために開発されたが、黒田氏の要請により有限要素法を用いた構造解析を行うことも出きるよう大巾な改造を加えた。
有限要素法の計算コードは、丸善発行 藤谷義信著「パソコンで解く骨組の力学」に記載されている構造解析コードStatb.forを著者及び丸善?の好意で利用させて頂いている。
KI工法におけるトラス構造は使用部材数が1000~3000と非常に多く上記コードの制限を大幅に超えておりこのため、ソースプログラムの原型を損なわないように注意して改造し、使用部材を3000まで計算可能としている。
プログラムの改造ミスのチェックを兼ねて、同じく丸善発行 藤谷義信他著 「パソコンで解く骨組の静的・動的・弾塑性解析」の入力データも作成できるようにしている。
KI_Trussの特徴は
(1) データ入力方法として次の3種類を選択できる
  1.  KI基本ユニットから選択する
  2.  簡単な手書入力をサポートしている
  3. 自由に設定できる軸マクロ、床マクロを提供している
(2) 入力されたデータを次の形式に変換することができる
  1. 軸モデルとしてのアイソメデータ
  2. 海文堂発行 L.アンメーラール著(岡島正夫訳)「超軽快3次元ドローイングWim3D」用の3次元データ
  3. パース結果を市販のCADソフトに読込ませるための2次元DXFデータを作成できる
(3) 3次元空間に対応した節点命名法を用いる
全ての節点名をそのXYZ座標位置からX00Y00Z00~X99Y99Z99なる固有名称を設定する
(c)copyright (NPO)木の建築フォラム( 地域活動 グループ ) OokWood +Mori+KI Architects Collaboration@loveriver.net 2001
ふるさと遺産(地域メンバー)提案

愛川町 半原小学校 


提案※付記 2013 改訂

学校であったものは「学校」として使おう。
【制度】に縛られた本末転倒施設でない「自由学校」として使おう。
・コミュニティと共に使おう。
・「郷土資料館」であったものは「郷土資料館(博物館)」として使おう。
サテライト館として。地域まるごと博物館のコア(中心核)空間に育てよう。


(以下 2013 ・平成25改訂) 
2013年 提案序章(参考サンプル)


 

 ”学校用地に建つ以上「学校施設」。一般住民市民が自由に立ち入れる用途には難しい” と言う。
 皆で「どう使おう、使える」その自由な使い方の発想が先に立つはずが・・・  
 既成の規制の「決まり」 を先に持ち出して、用途はそれに合わす・絞る・制約する。
 まさしく【本末転倒】機構

◆ 新しい「郷土資料館」(博物館)は町のハズレにつくられたが・・・
 展示物がある所だけが「博物館」ではない。
 この「木造校舎」そのものがまさに展示的な価値を持ったサテライト・ロケーションの「展示品」。かつ多用途に「ふるさと・地域まるごと博物館(エコミュージアム」のになれる。
  ◆ 新ピカの『郷土資料館』施設物は、事務機能として「核」の役目を果たすが、「地域まるごと博物館」ネットワークの核には、まさにそれ自体大きな「展示物」の「文化財」木造校舎がもっともふさわしい。人も大勢集まれる、さらに内部に多様な展示を展開できる広い余裕のある空間を持ち、「住民主体」の自由な自発展示・創作活動施設として活用できる。
◆町内には、ハコモノ博物館に収まらない大きな「歴史を携えた文化財施設や環境」はあちこちに豊富に散在している。
◆ もちろん、ふるさとに住み、育つ子供たちがそれらの「ふるさとの財産」を知る機会のコアとして学校に隣接することも、またとない好機、ロケーションではないか。

※参考 エコミュージアム神奈川

◆ 技術・技能・知識を持った「教えたい者」が、「教わりたい者」を自由に教えられる、「教室」空間にもふさわしい。ふるさとに誇りを持った再発見、写真、絵画、木工、手細工、藁細工、人力農具使い、パソコン表現・・ 木の温か味をフルに生かし改修した健康空間で。
◆ 新しいものと古いものの融合。伝承。創作。面白おかしい工夫がなければ、テレビゲームの好敵手にはなれない。
◆ 位置づけ・利用形態は皆で決められても、文化貧困行政からは必ず「金がない」という言葉が出てくるに違いない。「木造校舎・基金」運営展開を進めよう。


 体感的な?「校庭が狭い」感覚論か、拡張事業に助成金が付くはずだった面積「基準」値の利得か・・・ともかく「そこに古い時代の遺物の木造校舎があるのが邪魔っけ、無駄、合理的でない」という「あっち行け!」希望論が先。
 そのための理由・理屈をいろいろ探してつけている印象を否めない。
◆ 文部科学省令「基準」(校庭の広さ=「生徒数×10㎡」基準。最低値2,400㎡~最大値7,200㎡まで)校庭拡張事業に際してはその「基準」値までは国の助成金補助がつく。ただし助成申請平成10年まで(2001年現在情報)
◆ 上記「基準」を持ち出すのは、成長期一辺倒の旧感覚・固定観念を抜け出ない。
 校庭が広いに越したことはないが、※生徒数に応じて掛け算「基準」を持ち出して拡張をした校庭が、もし生徒数が激減したら、その「基準」に応じて縮小するのか? 
「広すぎる」と言うのか? 
 拡張の過程でにノケモノにしたモノ(文化財や環境)は仮に校庭を縮小してももはや取り返しがつかない。
半原小学校校庭拡張事業案は当時(平成3年度ベースで)児童数の急増予測も見込んだものであったが、平成5年度をピークにかなり児童数が減っており、もはや一人当たりのグランド面積が著しく狭いと言う比較論拠はすでに適当でない。


(半原小だけが異様な?右肩上がり上昇の予測・・・ ※付記 (平成3年=1991年とは バブル経済 破綻期)

実際の推移は・・・平成3年・半原小だけの上昇予測の異様(バブルの終焉読み違え


●文化遺産を残せないほど半原小学校の校庭は、本当に狭いのか?? 「2001年取り壊し計画」理由
  壊して無くなった、目から消えるものは心からも消える・・・


 
※ 木造校舎が現在の位置に移築された昭和53年(1978年)当時と、平成12年(2000年)度現在、生徒数は、ほとんど同数。

  •  では最初の曳き家移築時、その配置では「校庭が狭い!」という検討がなされなかったのか?!
  •  木造校舎を一旦、その文化財価値を認め、その位置を良しとして保存したもの。
  • 老朽化メンテナンスの経済理由でその存在を邪魔者視する感覚に、本当に「 文化財 の意味・真義が理解する心があるのか?
  •   愛川町公立小学校の各校庭の広さ比較同縮尺)
    (児童生徒数:平成12年→平成24年推移 )

    航空写真資料:(C) Google Map 2013 改訂

    半原小学校
    (児童生徒数:561人→426人
    田代小学校
    (児童生徒数:281→189人)
    高峰小学校
    (児童生徒数:318→206人 )
    中津小学校
    (児童生徒数:619→564人 )
    中津第二小学校
    (児童生徒数:466→439人)
    菅原小学校
    (児童生徒数:550→463人
     
     愛川町・小学校の児童生徒数
    平成12年(2000年)当時 町資料
    小学校名

    児童生徒数

    屋外運動場
    面積
    (H3)
    ※注2

    一人当面積

    H12 ※注1

    平成24

    H12 ※注3

    平成24
    半原小 561人 426 4,879㎡  8.70㎡/人 11.45㎡/人
    田代小 281 189 5,579 19.85  
    高峰小 318 206 8,122 25.54  
    中津小 619 564 7,932 12.81  
    中津第二小 466 439 7,686 16.49  
    菅原小 550 463 9,440 17.16  

    注1)児童生徒数は、平成12年度統計資料/「半原小校庭拡張事業案」町行政資料
    注2)屋外運動場面積は、事業説明資料中「保有面積」として記載されているもの(平成3年5月1日当時資料)
       ・平成3年度学校台帳上の「屋外運動場面積」と思われる
       ・算定区域、実測方法等、数値については確定資料・根拠に乏しい
    注3)平成4年度拡張事業案では、一人当10㎡が適当目安(学校教育法 小学校設置基準)
    愛川町・小学校の児童生徒数
    (平成 24 年5月1日現在 町資料)
    学校名 1年 2年 3年 4年 5年 6年 合計
    半原小学校 63 56 70 66 86 85 426
    田代小学校 32 27 34 29 31 36 189
    高峰小学校 27 35 36 32 33 43 206
    中津小学校 98 76 87 110 97 96 564
    中津第二小学校 61 65 61 83 91 78 439
    菅原小学校 74 71 67 88 81 82 463
    児童数合計 355 330 355 408 419 420 2,287

    生徒一人あたり10㎡(約6畳一間)以上
    とした【基準】、「なぜその大きさが基準?」
    と根拠を突き詰めて行くと、明確な根拠に欠ける。
    「教室の天井高は3m以上なくてはいけない」
    と規定された【建築基準法】も、 なぜその高さ?」
    と根拠・理由を問うていくと、どうにも時代錯誤・・

    結局【基準法】が改正されることとなった。
    この一旦【基準】になった面積、国の助成金が出る
    ・出ないの基準数値とした。という使われ方が真相。



    愛川町郷土誌 (昭和57年/1982年 発行)「 半原小学校 沿革」 から

    平成24年の生徒数 :426
      昭和55年(=53年鉄筋校舎新設から2年後の)生徒数 :429
    生徒数も校庭大きさも現状とほとんど同じ。その時点「校庭が狭い」という声は? 
    木造校舎が二棟建っていた時代より校庭は大きくなっていた。 (→比較写真