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水道坂のクスノキ couple

★水道坂を下りずに右へ行くと、名勝「角田-箕輪耕地遠望」
Left Side Kusu
Right Side Kusu

―クスノキの樹形―


クスノキの葉

クスノキの樹肌

 



水道坂 2001年冬(実写)

角田・下箕輪スケッチ画像 74KB
水道坂より角田・下箕輪の眺望(昭和初期の思い出 画:諏訪部晃画伯)


スタジオジブリの描いたクスノキ

トトロの住みかのクスノキ(模写)
コダマはなぜ一人しか復活しなかったのか

 (空前のアニメヒット作)『もののけ姫』は、破壊の爪痕著しい森の最深部にただ一人たたずむコダマのショットで終わっている。一見、これは明るい未来を描いた希望的終息と感じることも出来る。しかし、これは本当にハッピーエンドだろうか。

 このショットは、映画『風の谷のナウシカ』のラストショットを彷彿とさせる。それは、「青き清浄の地」にチコの芽が吹いていたショットである。これを見たC・W・ニコル氏が感激して「あそこに開拓団を送り込むのか」と宮崎監督に語り、監督が失望したというエピソードは有名である。
(対談『メタファーとしての地球環境』)
 
 監督の意図がそれほど単純でなかったことは、漫画版を読めば誰でも分かることである。監督は、自然搾取を場所を変えて行うだけの開拓を嫌い、人間の手の届かない場所での原生林の復活を願っていたのではないか。『もののけ姫』もまた、単純に森林復活でコダマも再生したという人間中心主義の希望を描いたラストとは思えない。

 このショットをよく考えてみると、森は再生しても深部は再生せず、樹の精霊たるコダマはほとんど再生しなかったことになる。このコダマがかつての生き残りなのか、新生児なのかも不明である。コダマが一人もいない森とは、神のいない明るい森、人間の作り上げた森である。

 つまり、このラストショットは、原生林と里山の境目を描いた苦い結末と解釈すべきではないか。逆に言えば、わずかながらも原生林の生命力が残されているという光明を描いているとも言える。たった一人のコダマが今後増えるのか、あるいは絶滅してしまうのか、コダマ族の命運は人間の行い次第という含意があるのではないか。

 それは、糸井重里氏が考案した『となりのトトロ』のキャッチコピーを「このヘンないきものは、もう日本にはいないのです。たぶん。」から、「このヘンないきものは、まだ日本にいるのです。たぶん。」に変更することを要請した宮崎監督らしい複雑な願望と言える。それをどうとらえるかは観客次第である。
 

テキスト引用:「もののけ姫を読み解く」叶 精二

(高畑・宮崎作品研究所)
(c)スタジオジブリ    


コダマ
木々の死と共に死に続ける精霊

 コダマは、「木霊」「木玉」などと表記し、樹木に宿る精霊のことを指す。いわゆる「山彦」のことではない。山彦はコダマの為せる技のほんの一つでしかないと言う。
 鎌倉期に編まれた『天地麗気記』によれば、山の神の群族として「木三神」「応音神」がいると言う。これらは、天の声」を発する類の神であり、時には人を死に至らしめるとも言う。
 『今昔物語』の中に、次のような話がある。ある舎人が山中で独りで歌を詠んだところ、「面白い」という声が聞こえた。恐ろしくなって戻ったが、うなされて死んでしまったと言う。
 八丈島や青ヶ島には、森の伐採の際に、コダマの宿る樹を代るとタタリがあるという伝承が多くある。伐採の際には必ず一本残し、コダマサマを祀り供養をすると言う。
 作中のコダマも木々の精霊と思われる。木々の数だけ増え続け、木々の死と共に死に続ける。可愛らしく滑稽なその姿は、何故か人の子供のような形である。木々が人間にさり気なく訴えるべく現れた姿なのか、あるいは人の眼を通すとこんな形に見えてしまうのか。
 いずれにしても、宮崎監督が「木々の一本一本に生命が宿っていることの重さ」をヴィジュアル化する試みであったと思われる。それは、ラストショットに明らかなように、作品のテーマに深く通じる設定である。
2001/02/20
Forum"The Aikawa Heritage"