住民から愛される「道」、「整備」されて『気持ちのいい道』とは・・・
役所で言う「整備」を果たせば出現するものなのか・・・?

 人それぞれの多様な価値観・事情を十分にご考察ご準備願いたいと思うばかりです。   


建築基準法の「道路後退」について:  (原文テキスト  参考添付)

  論点の「道路後退部分(セットバック部分)」については、建築基準法のみが規定するものです。 
 論旨は、
  まず・・・

    「建築物の敷地は、安全上、『道路』に接しなければならない。」(=【43条】)


 天災・人災どんなケースにしろ、すぐ直に「道路」に出られなければ逃げ場も、助けも来 られない危うい建築環境になるから、当然と言えば当然の規定。

  ただし、「建築物の敷地は」 についてであって、 建物・構造物の存在しない土地については、規定の意味がないことも当然。(まず、そこを勘違いしないように!)

 (建物を建てない畑・林などは、つまりそこに誰の土地や公有地を通って実際行き来するかは別の話として、「道路に接しなければ・・・」 の範疇外。)

※こういうところを宅地造成地として販売する詐欺手口に惑わされた相談は意外と多い
→参考LINK

 次に・・・      
 避難あるいは助けが来る「道路」がまた、ろくな広さがなければ役に立たないから、

     『道路』というのは、少なくとも『4M以上の道』でーす」 と言うのが (=【42条1項】)
     


 では、昔ながらの「4Mない道」で建っちゃってるところはどうするの?と言われた時、
 

「そういう事情なら(いわゆる「2項道路」という)『まともな4Mの道路』とミナスから、とりあえず4M幅の線を『道路の境界線』とミナスですよー」(=【42条2項】)  
 
  と、「あいまいな日本」特有表現で、新旧の整合性を試みている訳です。

 つまり、市民の建築環境の改善・安全性を勧めているのですが、さりとて、仮に定めた「市民の私有財産の一部」を、勝手に公の「道路」に「する」とは言えない。(「建物は建てないよ、畑のまま使っていたいんだよ」などと言う土地の接道や道幅について、そもそも建築基準法がお呼びじゃない・・・)

 「大体、建築するその辺の市民自身の自発的安全環境なのだから・・・もらってくれと言われりゃもらうけど・・・」

と行政が言ってること、つまり、「私的な管理財産であり、かつ安全と道路の公共性は自ら備えなさい」という、「市民当事者に委ねられた部分」と認識しておくのが、妥当な見解です。

  門塀で囲い込んで私的「所有宣言」してみても虚しく、また、一律ただ「道路に取られちまった」とかの土地でも有りません。もちろん、一体のアスファルトで固めるのが当然のもので もありません。

 「そういう曖昧なことは、誤解やら、ああせいこうせいめんどくさいから、いっそ寄付しちゃえばァ・・」というのが、行政側の本音。

 市民の側でも、そうしちゃった方が世話なくていいやと思う方もおられようし、また一方、「公共の土地で、自分の土地」という正当な管理認識と創意工夫があれば、

◎ 「通過車両にわずらわされることの少ないように」とか、
◎ 「安心して歩けるように」とか、
◎ 「憩いになるように」とか、
  「すこしでも住民本意の望みを織り込める『人の道』にできるのではないか」という希望を放棄しない人もいる、という現状です。


長いすベンチの前側がセットバック部分(例)


 

なぜ4Mなのか?

 実は、専門的な関わり深い私達から言っても・・・「ようわかりません」(^^;。
クイズ番組だったら、けっこうおもしろい謎解き解説が出てくるかもしれません。

(面白い参考に、「すべての道はローマにつづく」の古代ローマ街道は、偶然の一致的に、標準道幅「約4メートル強」だったということです)


       引用:塩野七生「ローマ人の物語X」
 


・・・ 建築基準法制定当時(昭和20年代)の感覚からしたら、やはり、その頃の車は無理なくすれちがえるとか、角を曲がれるとか、のあたりだったのでしょうか? 
 
 体格も車のサイズも勝手に大きくなって、半世紀以上も隔たった今の現状では、「時代のずれ」は、もはや哀れさを通り越してひんしゅくものです。

 日常的に、ほとんどの人が気づいているはずなのです。

 ごく普通の車同士でも、すれちがいに難儀してにっちもさっちもいかない光景や、歩行者までとばっちりで通せんぼを喰らう、などは日常茶飯事です。
 
 ぎりぎり通り抜けの不特定車両が、沿道各戸の塀や生垣に日常的被害を与えてそのまま走り去る・・・そういう当て逃げの奨励をしているのに等しいようなものです。

 いざという消防車・緊急車両と鉢合わせしたら、もう絶対的に、すれちがえる余地などありません。

 「緊急車両のために(セットバックを)」 というお題目が本気なら、対向車1台で身動き取れなくなるような「4Mめいっぱい車道に使えるための舗装」などより、一方通行路として整備した方がはるかに有効で安全であるはずです。
 1車線専用なら、幅の余裕にはるかに申し分ない。
(通行を塞ぐ違法駐車できる余地もない。工事や荷物運びで長時間駐車が必要なときは、部分通行止とするために必要な迂回路掲示や交通警備員の配備を要して、安全性はかえって確実になる)
 
 通過車が通りやすいためのセットバックだったら、お門違いなのです。
  道路=車の道路という高度成長時代的固定観念(思いこみ)では何をか言わんや、なのです。
 
 セットバック部分を本当に皆で協力して住民本位に有効に利用しようと言うのなら、

◎ その部分を明確に色分け舗装などして、絶対の歩行者「専用」部分と意志表示して連続させるとか、
 

◎ 休憩ベンチやお花畑など「憩いのスペース」に、各自のセンスを競って楽しい生活路地づくりをすすめるとか、いざという時の災害等救援活動にいつでも通行解放できる用途を備えて、立法の趣旨にも逆らうことなく、心豊かになる使い方は他にいくらでもあります。
 

道路後退部分の「寄付」について:

 言葉は「寄付」としていますが、実情は、かなり「強制的なイメージ」で「供出」を求める、「知らぬが仏」のプレッシャー手続きが手ぐすね(?)引いております。
:建築工事に着手するには、「建築確認申請」をしなければならないのは周知のことと思います。「道路後退」を遵守する計画であることは、当然、建築基準法上審査されます。
 にも関わらず、受付け前の手順として、

▲ 道路後退部分を先にすべて市に寄付するか

▲ 市による管理、側溝・舗装工事くまなく織り込まれた「無償使用」承諾書を求められます。

 もちろん、私権に関わることですから何の強制力も持ち得ません。「そんな承諾する気はない。事前協議する気もない」と堂々主張できます。
 が、いかんせん、素人の方がそういう選択をできる案内を(わざわざに)示してあるはずがありません。あたかも「その承諾書類が確認申請上必要」のごとく思われて、実印を捺されるでありましょう。

 そうして・・・成りゆき、家の建て替え工事をすれば、間髪おかず「道路後退」は、アスファルトで占有宣言(?)される手はずになっています・・・。

 (その昔は、何も知らされず道路後退部分まで売買価格に含んで買わされていた人も少なくはなかったようです。例えば今なら、坪価に相当するような「現金で100万円程」めいめい寄付してくれと言われれば、相当な議論が醸されるでしょう。)もう一度、「どういう意味の土地か」を今度は十分に心得、そして、地域に(そこに住む私たち自身に)どういう貢献をするのか、考えてみてから始めるのに、何もせかされる必要はありません。 
 

道路から雨水が流れ込む低い敷地について:

  
 個別に家の前に側溝を入れて欲しいという要望に市は冷たいという。「皆で寄付してくれるまで難しい」と相手にされないという。

(側溝がいいかは別として)そんなばかな対応をさせていてはいけない!
 誰も自分から、敷地をわざわざ道路より低くして建てる酔狂はいない。後から市が舗装する際、接道する最大の利用者である住民各位にお伺いもせず、敷地レベルとの調整もせず、舗装レベルを勝手に施工した、とんでもない「お座なり」行政の結果である。損害賠償ものである。

 個別であろうと徹底的に改善させるのに何をためらう必要があろうか。市内でも有数に高い固定資産税を納めているのである。道路後退部分にだって払っているのである。景気対策といって何兆円もの公共事業費とかをつぎこんでいるのである。
  市は、住民が建物を建てる際には「宅地内の雨水処理はすべてその宅地内で処理せよ」と (建築確認申請時)宅内浸透ますを複数義務づけて(完成時)チェックしているのである。なら、道路の雨水は道路内ですべて浸透させよ、と市民側が徹底的にチェックをくれるのが筋である。
 

側溝は必要か?

 
 名前からして「側にある溝」である。ハナから道端に付けるものと思いこんでいるが・・ まさに、前時代の「どぶ」の発想から、思考力が停止している。
(英語で「土木」に該当する civil  engineering  の civil は、「市民の」、「文明の」意味の同一語なのである)
 道路の中央が高くてあたりまえ、ではないのである。誰が一番使う道路なのか主眼に入れれば、道路中央に水勾配を取った「V型溝」 排水などの方がはるかに、優しく「生活の路地」を主張する機能とイメージを整えられる。
(道と敷地の境界を無理につけることもない。生け垣などであれば、根本か葉の先端か、どこが境界か、などという愚の骨頂を付けるようなものである。)
  それより何より前に、地下水源への還元、下流の都市型洪水を考えれば、「透水性舗装」を備えることが、今や常識、かつ本当に広い意味で公共のためであろう。
 

防災に対処しているか?

 防火的な距離としての参考であるが、建設省建築研究所の実際の類焼実験においては、5Mの道路をはさんでも、たやすく対面に輻射熱延焼してしまう報告がされている(ただし、火元、延焼建物とも防火性能のない木壁での実験だが)。いずれにしろ、防火性能のない露出部がある建物は、初期消火に遅れてしまった火災に対しては、ただ4M確保しただけの道程度では隔離距離として意味を持たない。

 阪神・淡路大震災の尊い教訓では、「道路が倒壊物で機能不全に陥り、一層の悲惨さを招く」実例をまざまざ、認識させてくれた。
 同じ規模の地震が近辺で発生したとしたら・・・、
 あれほどまでに耐震的に無関心無防備に慢心した地域意識とは、多少なり違う備えに各戸ある・・・とも、ないともは各自の判断ですが、地盤的な良好さに(比較すれば)恵まれているなど、一挙にすべてが彼のような壊滅状況を被るほどには・・と多少の楽観はある。
 ただ、道路の方向に屋根勾配を取っている瓦屋根も多く、(伊豆地震の調査例などから)道路直下に相当の落下と外傷人を招く危険は必至と断定できる。

 それにもまして、危険事項は、宮城県沖地震で、通行児童など多数の死者を出した、ブロック塀などの倒壊です。
 この「通り」に限らず、高積みで、見栄えも丈夫そうに見えるモノも多いのですが、内実は、工事業者・職人の教育・研習がもっとも放置されている業種で、(専門的な興味で工事中よく見かけるものは)一応の配筋補強をしているようでいて、しかしただ見よう見まねのモノで、耐震構造的な基準に驚くほど無知無頓着なものがすべてといってよく、振幅方向と周期の同調により、底部からひとたまりもないものばかりと言って差し支えない。
 

 
 阪神・淡路では、それでも発生時刻が不幸の中でも幸いと言われます。しかし、不幸中の不幸を重ねる確率とて同じで、学童の集団登校路や、保育園児の散歩コースにもなっている通りは、無垢な他者に及ぼす危機に、各自が一層の安全を考えるべきとも思うのです。
 不幸中の幸いに人的被害を免れたとしても、そういった倒壊で道をふさぎ、災害救助車両や機材の通行を不可能にして被害を拡大する愚を招いたとしたら、側溝だ、拡幅舗装だのの騒ぎの比ではありません。

 元来、塀の類の、道に対する「閉鎖・防御」志功は、庶民のものではなかったはずなのですが・・・
  L型側溝にしろ、そうして境いをきっちりつけたがる近年の性向は、「どこからどこまでどっちに属すのか」曖昧な空間の構成に卓越した日本的な
(=つまり模倣でない国際的な)安らぎと人間性の文化・環境から、いかに街を閉ざしていくか・・・人を閉ざしていくか・・・
 
 きちんと考えてみませんか?
 


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