OokWood |
Last Update : Oct.25th , 2001
|
|
|
古民家調査実習・見学/兼 掃除・梁磨き・(修復再生手伝いボランティア)大歓迎!
現在、友人職人+自力作業による実働開始(2000年10月・・・ようやく)
(日程=不定期)
なんとも。。。いやはや。。。更新日付一年ぶりとは。。。
4年しか借りれないかもしれないと常にあせりに追われるような古民家暮らしに入って、もうフル3年が経ってしまった。。。 入居時写真が初々しい。。。 どこも変わっていない。。。 ただ、家財・ゴミの類で散らかり放題になっただけ。。。 3年という期間は。。。例えれば。。。何もできないシロウトレベルが修練次第でプロに成れるほどの、一生を左右するほどの成長さえできる期間。。。 加速に加速する時間進行に、せめて豆に記録を残さないと、本当に無のうちに過ぎ去った時間としか思えなくなる。。。 心しよう!と思う。 Oct.25th,2001
|
これまでいろいろ問い合わせありがとうございました。2年近くに渡って長く体調不調でなかなか身動きが取れませんでした。ようやくボチボチ身体も頭も動きはじめました。Oct.28th , 2000 |
1998年10月 賃貸入居時 撮影
パブリックユース(催し・セミナー合宿・ギャラリーなど)に常時開放予定。 (=「金太小屋 part 2」計画) |
(同上2001年度に予定→) 一宿一飯提供可 for バックパッキング旅行者 or 自分探し旅行者 [注:ビンボー旅行体験者(寝袋・携帯自炊道具持参)に限る〕 要 民家再生労働雑務 (青春18キップ系 & ヒッチハイク経路/ JR相模線 原当麻駅徒歩 or ヒッチハイク 6.5km) |
神奈川県愛川町/中津川 八菅橋上流 下谷集落
小田急線「本厚木駅」〜バス(10番乗り場)35分410円〜愛川町「中津」経由「一本松」or「局前」下車徒歩10分
・
「山十邸」古民家通り〜熊坂下る/かながわのまちなみ100選「菖蒲の里」小路
近隣タウン誌に紹介記事が出ていることを本日はじめて人伝てに知りました。(今年になって取材インタビューには応じてはいましたが・・・)
「字数も限られたスペースで、実体を超える(?)記事のウマサに感心しました・・・が、正確さを欠く部分もあります・・・」というところで。
先シーズンは、興奮のまま勇んで、急激なSOHO環境変化になまくら身体がついていけず、過労ダウンのまま、身体も精神も完全復調ならず、「思い」のみ駆けめぐるうち・・・あっという間に一年飛び去る・・・ 手つかずのまま、ああ万感の一年!を迎えた今冬期は、寒さの訪れからシーズン通して耐性細菌性の風邪ひき、さらに合併症で、療養を余儀なくされ、季節のあいさつ状も、WEB PAGEの手入れすらままならない現状。 復活・リベンジ!は春・・・予定。 そして、悟ったこと。「(これまでの都会的レース?ペース感覚で)焦ってもはじまらない。」
新聞広告にしみじみ感じいるフレーズ:
|
■昨年10月末引っ越して、恐怖の一夜を過ごして以来・・・あっという間に一年目が過ぎ去った・・・ ■この古民家に住みついて直後、奇しくも木造建築研究フォラム・古民家再生「降幡」塾が開講され、勇んで参加、体験同時型研鑽の日々のはずだったが・・・
■一周年アニバーサリーのこの10月22日、重なる偶然というか、私たちは松本に跳んでいた。
■数々の氏の松本での原点、そして最新プロジェクトの仕事にこの目で触れることができ、新たに意気あがる! ■大家の大家たるゆえんはすべてそのみなぎるエネルギーだ。
|
(相模川の支流)中津川のほとりの集落を散策中、偶然、感性を揺すられる!錆トタンの大屋根の古民家に出会った。 維持が大変な「わら葺き」の上に波トタンをかぶせただけ、建具をサッシに入れ替えるといった手も加えられていない。ぎりぎりの生活に根ざした工夫で住み保たれてきた正真正銘の庶民(農家)の家だ! 空き家らしい。 傷むに任せるしかないのか、いずれ取り壊してしまうのか。
日本の住まいの文化・環境は、今や、山中でいつの間にか先が立ち消えているような迷い道に踏み込んでしまっていると、痛切に感じている。
その分岐点の前の、通ってきた昔を、実際住んで、実体験した者でしか、枝道へそれていった心の奥底に澱んだ愛憎感覚には迫り得ないと思える。* 来客扱いで一晩二晩泊まっただけで情緒を論じるような手合いのウソがすぐ見抜ける。
古民家のご当主は、既に30年程前に、商売・生活利便のため、街のメイン通りに店舗新宅を構えて移り住まれたという。以後貸家として、時には大学の先生とか風流人が借りて句会の催しなどによく使われていたと言うが、現代人に住まいとして認められなくなってだいぶ経つようだ。
|
ご当主にアプローチを重ねた。
妻は、十代まではこの町で生まれ育った、言わゆる地元出身者なのだが、古い人間関係のからみや性質が煩わしく、大学生活に都内に出て以来二度とふるさとで住まうことなど考えにも入れてなかった。
|
後日談として、この家自体は、貸家として公然と不動産業者に仲介に出されていた物件であったという。
結果幸い、まるで物好きを待っていてくれたようだ。 いずれにしろ、「集落自体の共同作業や人のつきあいを大事にして、大家の立場上、地元に顔が立たなくなるような店子というようなことのないよう住んでくれるなら」、「一応4年を目処として以後どうするかは白紙という条件でいいなら」
ということで契約に進んだ。
|
1週間と待たず、住まいも仕事場も、思い切って全てを引っ越した。 築経年は140年ぐらい前(江戸時代末期)、分家として出た時に上流の半原集落にそれ以前から建っていた農家を売り買いして移築したものという言い伝えであるという。
このあたりの人にとってはただの「敷地」だが、市街地感覚で言えば前・後ろ・両隣の敷地が全部自分ちの庭。
1970年代末/設計事務所としてスタートしたばかりの頃 (稼ぎなどまだ度外視できた頃) 戦中に建てられた長屋で、まさにどんな住み手も逃げだすつぶれかかった都市「廃屋」をオモシロ好き仲間と自力建設で蘇らせた経験がある。 また、「独立初期の仕事はだいたい身内のものばかり」という、建築設計者の定例に漏れず、妻の実家ご両親の老後住宅の設計をいただいたが、それがまず真に民家と向き合う最初だった。
(老両親の母屋の最初の築年は昭和10年代ということだったが、いわゆる「黒船開国の前から、先の敗戦、そして独立、高度成長期前夜までの”一連の時代”」、築経年が数年であろうと百何十年であろうと、日本の「民衆の家」は、大方の地域、どれをとっても、まさに今言う「古民家」の形態と何一つ大きく変わるところはないと言える。
ただ、今の、江戸時代までさかのぼる、本格的に「古」とつく民家の、これだけ永く生き長らえてきたものへの敬意を込めた「再生」をイメージできる機会は、本拠にしてきた新興都市部において地域的にも時代的にもなかった。 私自身は忘れてしまっていたが、高校の同窓生から「あの当時からオオキは、『外から見たらぼろぼろのあばらやで、中に入ったら想像もつかない空間性の建物を造りたい』と言ってなぁ」と言われた事がある。・・・そう言えばそんな覚えがある・・・と逆に物覚えのいい友人に思い出させてもらった。 その頃から、(カッコヨク言えば)「時間と空間の融合」をイメージしていたのか―、
時間の風化を携えた建物の風情は、それだけで、得も言われぬ「美」を備える。 どんなわが物顔の御曹司が金に糸目をつけず短絡に欲しても、そうやすやすと新しくは作り出せぬ。 さらさら新しくはないと言え、今言われる「民家再生」が、建主の求めとはいえ、金をかけた成果(と格?)にこだわって、外に向けたよそ行きの顔に化粧をし直しているだけの様な、違和感を感じてきている。
そしてとにかくこの目の前で、その永い時間を生きてきたものが、美も価値も一顧だにされず、チェーンソーと大型機械でたたき壊されていく、残された時間だけがどんどん逼迫している・・・
「暮らしの古民家」は、要は金がないから、残った 昔のように金がないゆえ、使い回しの部材を再利用するという、ほんとうの意味の「再」び「生」かす美意識、経済システムこそ肝心なことと感じる。 大時代的な黒い長大な梁や柱ばかりに目を奪われないで、どんな粗末な建物・部材であろうと、時代と経済抜きに語れない、翻弄されてきた存在そのものを注視したい。
部材がいい、仕上げがいい、といった、モノとしての相対価値や職人寄りのプライドにつきあうばかりでない、ほんとうの生活の「再生」センス=「いかに伸びやかに使いこなすか」、「いかに生活を楽しむか」のソフトウェアを最大重視にしたい。 降幡師以降の「民家再生」を考える次の世代の考え方の一つを示す方向の実験をしてもいいと思っている。 (青春期に既存の権威・体制に逆らって道端に座り込み始めた僕らに限らず)例えば、長く履きこなして自然にすり切れたジーンズに、より価値観を共有する者は、時代・世代を超えて多い。
加えて、パソコンのように性能・速度オンリーに「新しければいい」モノと、一方、堂々と「使い古してこそいいもの」とを、きっちり使い分けていく素養、自信、そしてそれを見抜き、評じ合う自由闊達な感覚こそ、これからの住まい・環境の文化を発信する私達のメッセージと思う。
|
以下書き込み記録
1998/Oct./27
散策の途中、偶然、「わらぶきトタン屋根」の空き家らしい古民家を見かけいろいろお伺いの末、4年間を目処に住まい兼アトリエとして借りれることになりました。
新たな活動拠点としていろいろ修復・研究を兼ねながら、10月の末から暮し始めます。
あたりが暗くなると突如、戸袋がガタガタ振動する。当初は地震かと思った。体感震度はなくとも、なにしろあちことガタガタの家だ。共振現象であちこち揺れるのかと思ったが・・・ちょっと気味悪くあたりが暗くなって、もう引き上げようか言う頃、毎日のように起こる。ガラス窓一面が共振しだす。
何日めかの夕刻、相方が「きゃっ!」と口ごもると、恐怖にさいなまれた顔つきで寄ってくる。
裏口から外に出るのはちょっとびびって、中の他の窓からあたりを見回したが・・・何の気配もない・・・ その日は逃げるように帰った・・・ 数日後、探検に出た。
天窓があって思いのほか明るい。 と、(小屋裏の梁を白っぽい小動物が駆け上がっていった。
ハクビシンかテンかとかいろいろな話が飛び交っていますが、以後まだはっきりとした姿はお見せになりません。私たちちん入者が住み始めるとどこかに出ていってしまうのでしょうか。うまく一緒に住めればいいなと思っているのですが。 |
住み始めて1ヶ月が過ぎました。
始めての夜は、正直なところ恐かった・・・
使い始めたトイレ(汲み取り式)がとたんにスゴーク匂い始めた。(当然か・・・)
今日はまた、とりわけ寒い、すきまっ風・・・
でも、口先だけでない「民家再生」への実践生活が・・・とにかくうれしい!
意気込みとは正反対に、諸々の疲れが押し寄せたせいか
暮れから病に倒れ、起きたり寝たり入院になったり、もう4ヶ月になりなん、何の計画進展、実働もみていない。 近所の、もっと古民家然とした空き家を、やはり一昨年から借りて住んでいる著述業/陶芸家ご夫婦一家と早速お友達になった。
そういう準備期間も考えたが、とにかく、まずこの冬を、これまで住んで来られた人々の感覚をこの身で追認すべく、感じてみようと思った。
自分が病に倒れて、しかも入院状態を、地元ヤブ病院側の都合で自宅に帰されたような状況の時は、本当につらく、トイレの用に恐怖すらおぼえた。 昔はみんなこんな暮らしをしていたんだ (事実、私らの子供時代の家もどこも同じ様なものだったはずだ)、現代人がナマっただけだ!と、精神生活をいうのはたやすい。
住みながらなら、実測調査の効率もよい、
どこかわずかな部分修復に手を加えれば、必ずその周囲を剥き出しにしてからの修復が必然的に拡大し、そこから新たな通風路として吹き込む真冬の外気の流速には、じわり意気を萎えさせられた。(作業現場としてならまだしも、日常生活「住む/暮らす」という現状を抱えていると、これはやはりかなり無理がきつい!) 身体の調子が万全であったとしても、やはり、「春になって暖かくなってからにしよう」などと、一部屋だけ密閉して暖かくしたデスクワークにこもったに違いない。 いくら湯につかってからでも洗い場で悠長に身体を洗っていたら震え上がって心臓マヒ、脳溢血になりそうな風呂場。
家事が快適で楽しい、いつもそこにたむろしていたい、そういう土間キッチン・リビング・ダイニングを来冬までに必ず進行させたい!
つづく
1999/10/25 実に、久しぶりに、降幡御大にお会いしてエネルギーをもらって、このページに手を加える。
思わぬ病で、蓄え・工事資金も生活費に消えた・・・
|