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Last Update : 2003/10/24
2003/10/24
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Love River Town 民家再生 ワークショップ 1999-2003
おお木まさみ / Architect & Design Workshop (一級建築士事務所)

(番外編)

田舎の古民家から、街の古民家へ。


いやはや・・・ 前回更新日付を見て・・・

(豆な更新を)「心しよう」など書いていながら、早、まる2年・・・
偶然、自己検索で目にすることとなった今日の日付も、まさに同月近似日。

 かように、自己サイトのページにもアクセスさえしていない状況というのも、いやはやとしか言いようがないが・・・
 この古民家借家に、ちょうどこの時期10月末に引っ越してきて始まったことに妙に符号する。

 10月末というのは、私の中で何か胸騒ぎがする時期なのだろうか?
(まあ単に、冬ごもり準備にあせりはじめる動物的遺伝習性なだけとも言えなくはないが笑)

 田舎の古民家から、街の古民家へ。

 こういう遺伝的情緒要素なのかも知れない。
 冬を前に、小田急線相模原駅・東林間駅徒歩エリアにWEB検索で平屋の借家情報にめぐりあった。

 引越しを決めた。
 家族の健康医療と業務関連の大きな理由による。
 
築30年以上の2軒長屋の一角。
和室2間に台所、前時代的木賃住宅の典型。

すべてが真壁塗り壁で、構造上の柱がすべて見える空間。
じんわり、なんともいえない安らぎを呼びさまして余りある。

柱径が3寸(9cm)足らずで、視覚的にも、狭い部屋と絶妙にバランスがいい。
茶室的軽妙な、必要最小限の美を訴えかけてくる。
(古民家農家での、ボリュームで見栄の張り合いっこをしているような必要以上に鈍重な柱・梁を見慣れると、この合理性は新鮮で気持ちがいい)

囲炉裏を焚いた時代であろうはずがないが、自然の経年変化で絶妙に茶褐色化していて新旧塗り壁とマッチングして、美的この上ない。

世間の、安物新品で汚れのないまっさらだけを珍重する100円ショップ感覚は、私からすると、むしろ理解し難い。

経年変化、英語ではエイジングという品性のある言葉を携えた、時間のみが作り得る至上の美しさだ。
 

「1997年8月24日・中2」と、男の子の名とラインが入った柱を見つけた。♪柱の傷はオトトシの・・という背比べの童謡を彷彿とさせる・・・何本も日付とラインの入った柱、前の居住者一家の形跡に、妙な懐かしさとコミュニケーションを覚えた。
どういう成長を果たすかわからない子の思い出もとどめる、木賃借家。
「タケシくん」のイメージがふとよぎった。
金額的には粗末なつくりといえようが、心の温まる、いろいろな人々が生き生き住んで、そして、豊かになって転進して行ったのだろうと想像させる都市長屋。

住み手の生き方ひとつ、暮らし方ひとつ、これほど多様な可能性・精神性を育み蓄積していく住宅はないのではないか。

断熱性・機能・設備面はもちろん、現代住宅からは比較にもならないが、築140年住宅に住んだ経験から言えば、雲泥の快適さであろう。そして正統に系譜を継承する。

日本人がほんの数十年前までみな大方こういう家に住んだのだ。
一気に100年を超えて、現代のあるべき住宅像にまた近づいてきた。

あと30年分の進化をどう捉えるかだ。

現代に現代性を感じる新築住宅にはまだほとんどお目にかかっていない。
前川国男邸、清家清邸といった復元や現存する昔の名建築家の住宅の普遍的な最モダンを超えるような感動を覚えるようなものには・・・
 



本編 
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Last Update : Oct.25th , 2001

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Love River Town 民家再生 ワークショップ 1999-2003

おお木まさみ / Architect & Design Workshop (一級建築士事務所)
 

古民家調査実習・見学/掃除・梁磨き・(修復再生手伝いボランティア大歓迎

現在、友人職人+自力作業による実働開始(2000年10月・・・ようやく)
(日程=不定期)


Oct.25th,2001

なんとも。。。いやはや。。。更新日付一年ぶりとは。。。
4年しか借りれないかもしれないと常にあせりに追われるような古民家暮らしに入って、もうフル3年が経ってしまった。。。
入居時写真が初々しい。。。
どこも変わっていない。。。
ただ、家財・ゴミの類で散らかり放題になっただけ。。。

3年という期間は。。。例えれば。。。何もできないシロウトレベルが修練次第でプロに成れるほどの、一生を左右するほどの成長さえできる期間。。。

加速に加速する時間進行に、せめて豆に記録を残さないと、本当に無のうちに過ぎ去た時間としか思えなくなる。。。

心しよう!と思う

Oct.28th , 2000

これまでいろいろ問い合わせありがとうございました。2年近くに渡って長く体調不調でなかなか身動きが取れませんでした。ようやくボチボチ身体も頭も動きはじめました。

 

   

   

1998年10月 賃貸入居時 撮影


通常現代生活人一般感覚一般的レベルに修復進行次第、
パブリックユース(催し・セミナー合宿・ギャラリーなど)に常時開放予定。
(=「金太小屋 part 2」計画)
 
 (同上2001年度に予定→) 一宿一飯提供可  for バックパッキング旅行者 or 自分探し旅行者
[注:ビンボー旅行体験者(寝袋・携帯自炊道具持参)に限る〕 要 民家再生労働雑務
 
(青春18キップ系 & ヒッチハイク経路/
JR相模線 原当麻駅徒歩 or ヒッチハイク 6.5km)

神奈川県愛川町/中津川 八菅橋上流 下谷集落

小田急線「本厚木駅」〜バス(10番乗り場)35分410円〜愛川町「中津」経由「一本松」or「局前」下車徒歩10分

「山十邸」古民家通り〜熊坂下る/かながわのまちなみ100選「菖蒲の里」小路



2000年2月12日 久々の (^^;) UPDATE(この欄のみ)

 近隣タウン誌に紹介記事が出ていることを本日はじめて人伝てに知りました。(今年になって取材インタビューには応じてはいましたが・・・)
 本 HOME PAGE のアクセスカウント数を何十倍?も超える発行部数らしく影響力はこのサイト自体の比ではないと判断、急遽実体補足UPDATE :

 「字数も限られたスペースで、実体を超える(?)記事のウマサに感心しました・・・が、正確さを欠く部分もあります・・・」というところで。


 先シーズンは、興奮のまま勇んで、急激なSOHO環境変化になまくら身体がついていけず、過労ダウンのまま、身体も精神も完全復調ならず、「思い」のみ駆けめぐるうち・・・あっという間に一年飛び去る・・・

 手つかずのまま、ああ万感の一年!を迎えた今冬期は、寒さの訪れからシーズン通して耐性細菌性の風邪ひき、さらに合併症で、療養を余儀なくされ、季節のあいさつ状も、WEB PAGEの手入れすらままならない現状。

 復活・リベンジ!は春・・・予定。

 そして、悟ったこと。「(これまでの都会的レース?ペース感覚で)焦ってもはじまらない。」
 生活の中への埋没、いいことではないか。(生活感のない住空間映像を披露して「しゃれた」感性などと評価されているよりは。)

 新聞広告にしみじみ感じいるフレーズ:
 「体力こそ知的生活の基盤だ」 

 


 
1999/11月 UPDATE

■昨年10月末引っ越して、恐怖の一夜を過ごして以来・・・あっという間に一年目が過ぎ去った・・・

■この古民家に住みついて直後、奇しくも木造建築研究フォラム・古民家再生「降幡」塾が開講され、勇んで参加、体験同時型研鑽の日々のはずだったが・・・
何ひとつ進歩もおぼつかない実感のまま、一年が過ぎ去ってしまった。

■一周年アニバーサリーのこの10月22日、重なる偶然というか、私たちは松本に跳んでいた。
降幡塾第二期の松本現場見学会にちん入を許され、すべてのスケジュールに最優先したのだ。

■数々の氏の松本での原点、そして最新プロジェクトの仕事にこの目で触れることができ、新たに意気あがる!

■大家の大家たるゆえんはすべてそのみなぎるエネルギーだ。
わが内なる絶えかかったエネルギーを揺さぶり起こしてくれる存在、
まさにそれ以上、口先で何の論評も必要あるまい。
 


1998年秋

 (相模川の支流)中津川のほとりの集落を散策中、偶然、感性を揺すられる錆トタンの大屋根の古民家に出会った。

  維持が大変な「わら葺き」の上に波トタンをかぶせただけ、建具をサッシに入れ替えるといった手も加えられていない。ぎりぎりの生活に根ざした工夫で住み保たれてきた正真正銘の庶(農家)の

 空き家らしい。

 傷むに任せるしかないのか、いずれ取り壊してしまうのか。
 現代的民家再生設計に多少の心得はあっても、「アッシには関わりもゴザンセン」で通さなければ、大きな徒労と無償の時間の巻き添えを喰らう危険な誘惑。
 しかし、止められない表現本能に訴えてくるオブジェ、目が据わってしまった時はもう、万難を排し、絶対借りて住まわしてもらおうと決めていた
 
 


 日本の住まいの文化・環境は今や、山中でいつの間にか先が立ち消えているような迷い道に踏み込んでしまっていると、痛切に感じている。
 引き返せる道跡がまだわかる内に、早く、いったん確かな元まで立ち戻り、新たな正しい道筋を確かめて行くのが、若さに適うべくもない年の功の自負・心得でしかない。

 その分岐点の前の、通ってきた昔を、実際住んで、実体験した者でしか、枝道へそれていった心の奥底に澱んだ愛憎感覚には迫り得ないと思える。*

 来客扱いで一晩二晩泊まっただけで情緒を論じるような手合いのウソがすぐ見抜ける。
 

 ・ 

 古民家のご当主は、既に30年程前に、商売・生活利便のため、街のメイン通りに店舗新宅を構えて移り住まれたという。以後貸家として、時には大学の先生とか風流人が借りて句会の催しなどによく使われていたと言うが、現代人に住まいとして認められなくなってだいぶ経つようだ。
  


1998年10月初旬

 ご当主にアプローチを重ねた。
 身元信頼に足る設計業務経歴書や、雑誌や地方紙でちょっとした記事に紹介された雑文や資料やら届けてアピールもしたつもりだが、実際は全然目を通されていなかった・・・

 妻は、十代まではこの町で生まれ育った、言わゆる地元出身者なのだが、古い人間関係のからみや性質が煩わしく、大学生活に都内に出て以来二度とふるさとで住まうことなど考えにも入れてなかった。
 しかし、人の脈絡なくして古民家に住まうには困難を極めるのは定評だ。結局は、昔この村の中学校の熱血名物先生であったという知名人?の父上の娘である関係を明かして、保証人にその父上になってもらうということでで、話が通じた。


 10月中旬

 後日談として、この家自体は、貸家として公然と不動産業者に仲介に出されていた物件であったという。
 ただ不動産屋さん自身、地元世間一般普通の借り手の感覚で見れば、紹介・案内するのも無駄足、はばかられる、「貸せる家」としての評価外だった節があって?到底情報として表に出てくることはなかったとしか言えない。

 結果幸い、まるで物好きを待っていてくれたようだ。

 いずれにしろ、「集落自体の共同作業や人のつきあいを大事にして、大家の立場上、地元に顔が立たなくなるような店子というようなことのないよう住んでくれるなら」、「一応4年を目処として以後どうするかは白紙という条件でいいなら」 ということで契約に進んだ。
 


10月下旬 
 1週間と待たず、住まいも仕事場も、思い切って全てを引っ越した。
 
 築経年は140年ぐらい前(江戸時代末期)、分家として出た時に上流の半原集落にそれ以前から建っていた農家を売り買いして移築したものという言い伝えであるという。

  
 雨戸を開ければ、外との境は立て付けの傾いた障子一枚、隙間風吹きすさぶ座敷で、この冬のありのままの寒さの生活を身体で知るいい経験と思った。
 とはいえ、本格的な寒さの前に、少なくとも一部屋、事務所としてのデスクワークに支障をきたさない程度の体制も効率的にすばやく整える必要はあった。
  
 (ちなみに、家賃はこの辺の古い一軒家の貸家として、世評では「高いかも知れない、安いかも知れない、いわゆる相場であろう」と、それぞれの価値感に落ち着くようである。7万円。)
 (なお、風致地区・調整地域として開発の手から守られているこの80戸ほどの集落内には、あと4〜5軒、屋根プロポーションは葺き替えられてしまっているが同様の空き家がある。・・・木造建築研究フォラム/東洋大の上杉先生が(膨大な蔵書ごと別宅?構想か)興味を示しておられた・・・  イイトコデスヨ!!  家を一歩出ればもう目の前に、中津川、聖なる里山・八菅山という、いわば自然の大公園付き) 

 このあたりの人にとってはただの「敷地」だが、市街地感覚で言えば前・後ろ・両隣の敷地が全部自分ちの庭。
 妻が「鶏も飼ってみたい」、「どこか一部家庭菜園にも耕して良いか」とか、ひょいと漏らしたら、近くの荒らしている100坪ほどの畑も好きに使っていいと言われる。
 
 健康的で、稼げない?忙しさになりそうだ・・・(^^;)



 1970年代末/設計事務所としてスタートしたばかりの頃 

 戦中に建てられた長屋で、まさにどんな住み手も逃げだすつぶれかかった都市「廃屋」をオモシロ好き仲間と自力建設で蘇らせた経験がある。

 また、「独立初期の仕事はだいたい身内のものばかり」という、建築設計者の定例に漏れず、妻の実家ご両親の老後住宅の設計をいただいたが、それがまず真に民家と向き合う最初だった。 
 
 冬の寒さなどどうしようもなく厳しく、老両親の健康を心配された姉上のプロデュースで引き立てていただいたものだが、姉上一家自身は隣で「メーカー住宅」に住む。そっちの新築に転がりそうな目の中で、「長年慣れ親しんだ動線・原型にとりたてて不満はない」という生活者の「慣れと安心感」を最重点に置いて、「小屋梁再利用ほか、バリアフリーと現代的性能の民家」を実現した経験も踏んではいる。

 (老両親の母屋の最初の築年は昭和10年代ということだったが、いわゆる「黒船開国の以前から、先の敗戦、そして復興、高度成長期前夜までの”一連の時代”」、築経年が数年であろうと百何十年であろうと、日本の「民衆の家」は、大方の地域、どれをとっても、まさに今言う「古民家」の形態と何一つ変わるところはないと言える。
 「再生」という認識・定義はまだ時代的に使えわれていなかった・・・)


 ただ、今の、江戸時代までさかのぼる、本格的に「古」とつく民家の、これだけ永く生き長らえてきたものへの敬意を込めた「再生」をイメージできる機会は、本拠にしてきた新興都市部において地域的にも時代的にもなかった。

 私自身は忘れてしまっていたが、高校の同窓生から「あの当時からオオキは、『外から見たらぼろぼろのあばらやで、中に入ったら想像もつかない空間性の建物を造りたい』と言ってなぁ」と言われた事がある。・・・そう言えばそんな覚えがある・・・と逆に物覚えのいい友人に思い出させてもらった。

 その頃から、(カッコヨク言えば)「時間と空間の融合」をイメージしていたのか―、
ボケ老人がまるで子供に還っていくかのように、物心ついた時には決まっていた最初の感性に、確実に、戻っていくのか・・・と感じる。 
 子供は、人が打ち捨てていった物には、なおさら好奇心と素直に自分だけの価値を当てはめて遊び道具に興じる。ちっとも成長しない、それと同じ様なところなのかも知れない・・・


 時は金なり(異説)

 時間の風化を携えた建物の風情は、それだけで、得も言われぬ「美」を備える。

どんなわが物顔の御曹司が金に糸目をつけず短絡に欲しても、そうやすやすと新しくは作り出せぬ。

 さらさら新しくはないと言え、今言われる「民家再生」が、建主の求めとはいえ、金をかけた成果(と格?)にこだわって、外に向けたよそ行きの顔に化粧をし直しているだけの様な、違和感を感じてきている。
 また、一方では骨董趣味の「家屋」版といった趣の、アンバランスな内装嗜好の対象にしかなっていない趣味の悪い「再生」建物にもよくお目にかかる。

 そしてとにかくこの目の前で、その永い時間を生きてきたものが、美も価値も一顧だにされず、チェーンソーと大型機械でたたき壊されていく、残された時間だけがどんどん逼迫している・・・
 
 

 「暮らしの古民家」は、要は金がないから、残った

 
 昔のように金がないゆえ、使い回しの部材を再利用するという、ほんとうの意味の「再」び「生」かす美意識、経済システムこそ肝心なことと感じる。

 大時代的な黒い長大な梁や柱ばかりに目を奪われないで、どんな粗末な建物・部材であろうと、時代と経済抜きに語れない、翻弄されてきた存在そのものを注視したい。
(人一人の国際的力量とて、日本国の、モーレツ日本人総力のトータルな経済的成功の時代反映性の前には何も語れない。例えば海外一つ渡航するのにさえ苦労した時代を思い出せば、それを実感せずにいられない経験を持つ人は多いはずだ。)

 部材がいい、仕上げがいい、といった、モノとしての相対価値や職人寄りのプライドにつきあうばかりでない、ほんとうの生活の「再生」センス=「いかに伸びやかに使いこなすか」、「いかに生活を楽しむか」のソフトウェアを最大重視にしたい。

 降幡師以降の「民家再生」を考える次の世代の考え方の一つを示す方向の実験をしてもいいと思っている。

 (青春期に既存の権威・体制に逆らって道端に座り込み始めた僕らに限らず)例えば、長く履きこなして自然にすり切れたジーンズに、より価値観を共有する者は、時代・世代を超えて多い。
 そして、バックパッキング(背負いバック・寝袋一つで時空間を渡り歩いた青春放浪)と同じく、本質的に建築もやはり、、余計な重いモノを持つと我が身の肩の痛さで知る、いかに軽快であるかという観点――無駄にでかい、無駄に重い、ボリュームで威勢を張りたい建築とはやはり一線を画して――冷静に見極めたいと思う。

 加えて、パソコンのように性能・速度オンリーに「新しければいい」モノと、一方、堂々と「使い古してこそいいもの」とを、きっちり使い分けていく素養、自信、そしてそれを見抜き、評じ合う自由闊達な感覚こそ、これからの住まい・環境の文化を発信する私達のメッセージと思う。
 


以下書き込み記録

1998/Oct./27


散策の途中、偶然、「わらぶきトタン屋根」の空き家らしい古民家を見かけいろいろお伺いの末、4年間を目処に住まい兼アトリエとして借りれることになりました。 

新たな活動拠点としていろいろ修復・研究を兼ねながら、10月の末から暮し始めます。 


あたりが暗くなると突如、戸袋がガタガタ振動する。当初は地震かと思った。体感震度はなくとも、なにしろあちことガタガタの家だ。共振現象であちこち揺れるのかと思ったが・・・ちょっと気味悪くあたりが暗くなって、もう引き上げようか言う頃、毎日のように起こる。ガラス窓一面が共振しだす。
相方が歩く振動か?と気に止めないようにしていたが、心の奥底で、科学の心を奮い立たせるようにしていた。
まさかポルターガイスト?・・・はないだろう・・・信じもしないがしかし何か心落ち着かなくなった。

何日めかの夕刻、相方が「きゃっ!」と口ごもると、恐怖にさいなまれた顔つきで寄ってくる。
「今見えた?」
「いやなにも。どうかした?」
「白い陰が今その窓の外をすっと・・・」

裏口から外に出るのはちょっとびびって、中の他の窓からあたりを見回したが・・・何の気配もない・・・

その日は逃げるように帰った・・・

数日後、探検に出た。
真っ暗の屋根裏部屋におそるおそる踏み込んだ。
もちろんひとりではない。

天窓があって思いのほか明るい。

と、(小屋裏の梁を白っぽい小動物が駆け上がっていった。
先住民。
屋根裏に木の実の種のいっぱい混じった糞場があった。
 

ハクビシンかテンかとかいろいろな話が飛び交っていますが、以後まだはっきりとした姿はお見せになりません。私たちちん入者が住み始めるとどこかに出ていってしまうのでしょうか。うまく一緒に住めればいいなと思っているのですが。



December 3th

住み始めて1ヶ月が過ぎました。
始めての夜は、正直なところ恐かった・・・
使い始めたトイレ(汲み取り式)がとたんにスゴーク匂い始めた。(当然か・・・)
今日はまた、とりわけ寒い、すきまっ風・・・
でも、口先だけでない「民家再生」への実践生活が・・・とにかくうれしい!



1999 April 6th 


 意気込みとは正反対に、諸々の疲れが押し寄せたせいか
暮れから病に倒れ、起きたり寝たり入院になったり、もう4ヶ月になりなん、何の計画進展、実働もみていない。

 近所の、もっと古民家然とした空き家を、やはり一昨年から借りて住んでいる著述業/陶芸家ご夫婦一家と早速お友達になった。
実際住み始めるまで、最低限の現代生活が出来る程度に自分たちで直しに半年間マメに通って、それから引っ越して来たそうである。
(自分たちでできない給水配管設備など諸々200万円近い自費出費とか)

そういう準備期間も考えたが、とにかく、まずこの冬を、これまで住んで来られた人々の感覚をこの身で追認すべく、感じてみようと思った。
・・・その趣旨の成果においてはまさに大正解であった!
骨身にしみた!!

自分が病に倒れて、しかも入院状態を、地元ヤブ病院側の都合で自宅に帰されたような状況の時は、本当につらく、トイレの用に恐怖すらおぼえた。

昔はみんなこんな暮らしをしていたんだ (事実、私らの子供時代の家もどこも同じ様なものだったはずだ)、現代人がナマっただけだ!と、精神生活をいうのはたやすい。
 若く丈夫で健康な者になら、たしかにそうあるべきと思うが、やはりお年寄りや、病み上がり休む間もなく動かざるを得なかった婦人にはさぞつらい「家」だったろうと、骨身にしみた。

住みながらなら、実測調査の効率もよい、
基本的な修復の計画も現物を目の前ならいろいろ懸案できる、
歪み・基礎修復過程には影響の絡まない部分で、手の着けられるところからすこしづつでも意匠的準備を進められる
などと思ったが・・・
 その意味では甘かった!!

 どこかわずかな部分修復に手を加えれば、必ずその周囲を剥き出しにしてからの修復が必然的に拡大し、そこから新たな通風路として吹き込む真冬の外気の流速には、じわり意気を萎えさせられた。(作業現場としてならまだしも、日常生活「住む/暮らす」という現状を抱えていると、これはやはりかなり無理がきつい!)

 身体の調子が万全であったとしても、やはり、「春になって暖かくなってからにしよう」などと、一部屋だけ密閉して暖かくしたデスクワークにこもったに違いない。

 いくら湯につかってからでも洗い場で悠長に身体を洗っていたら震え上がって心臓マヒ、脳溢血になりそうな風呂場。
 氷のような水(事実何度も氷結)で調理洗いものをしてくれている妻にこれほどいつも「スマン!」と感じていた日々はなかった!

 家事が快適で楽しい、いつもそこにたむろしていたい、そういう土間キッチン・リビング・ダイニングを来冬までに必ず進行させたい!
 もちろん私本人が日常食生活を自立して、いやそれ以上に少なくとも交代サービス要員を勤めることもお約束します。(これは怪しい知事公約などはなく、インターネット・ワールドワイドに発する公約でアリマス!)

つづく



1999/10/25

 実に、久しぶりに、降幡御大にお会いしてエネルギーをもらって、このページに手を加える。
 ほんの数行前に、来冬までに必ず・・・どうとか言いながら、また、あっという間に冬の到来寸前。
 キッチンも風呂場も土間も何一つ手が着いていない。
ウーム、笑い飛ばすしかない・・・
  
 丸一年、手を加えなかったことは、結果として正解と思える事実もある。冬、なぜ北側まですべてハキダシ窓で熱ロスどころか、隙間風・換気申し分ない寒い作りを平然としているのか、高窓一つにした高気密・高断熱壁に
してしまう設計を考えていたが、夏、ハキダシ開放型でも黴があちこちにわき出てわかった。
 一季節だけの判断でことに及んでいたら、大変な逆襲を浴びていたはずなのだ。

 思わぬ病で、蓄え・工事資金も生活費に消えた・・・
直したくても直せない、ぎりぎりどうしようもなくなるまでは長い間こんな状態のままで実際住まわざるを得なかった人々の実生活をも実体験する、いよいよ佳境に入る・・・
 そして正真正銘の「暮らしの、貧乏人の」耐乏民家再生バージョンが研ぎ澄まされていくゾ・・・
 もらったこの元気をあたためながら・・・


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